議論についての議論。 〜論争なんてくだらない〜

論争嫌い(内田樹の研究室)

「論争嫌い」って視点が新しい。どうもこの世の中には論争好きと論争嫌いがいるみたいです。私も自分の意見を持ってないわけじゃないけどその正しさを証明するためにわざわざ論争するのって嫌いです。バカバカしいと思うので議論の席を立ちます。論争好きは「逃げた」「間違いを認めた」とか言いそうですが
わかる人だけわかればいいと思いますし、それで十分なんじゃないでしょうか。「このバカどもにわからせてやろう」なんて思うのは驕りも甚だしいし、なんか違うスポーツに発展しそうです。

「論争」というものが生産的になることはない、というのが「文科系」の学問の宿命だからであるからである。どこまでもやってゆくと、最終的に論争は「どちらが頭がいいか」というまことににべもないハードウェアのスペック比較になる。どのような高尚なテーマで始まった論争も、かならず最後は生得的な資質の差を比べるところまで品下る。

まったく同感です。理数系のようになにかしら答えがあるような世界での論争というのは正しい答えに少しでも近づくためのツールとして有効かもしれませんが、けして正しい答えがあるわけではない文系の世界において論争が生産的になったためしがない。結果的に好みの違い・考え方の違いが明確になるだけ。最終的にどちらの頭が良いかの勝負になってしまいがちです。結局、主題がそっちのけになって議論にすらならないような気がします。


言論の自由」というのは論争をしないで済ませるための工夫であると私は思っている。
(中略)
論争というのは、どこかで相手に向かって「黙れ」という言葉を口にすることになる。
それは民主主義社会においては禁句だろうと私は思う。
私たちは誰もが「言いたいこと」を公開の場で示し、自分の意見に同意してくれる人の数を増やす権利がある。
だが、他人が私見を発表することを禁じる権利はない。

議論ってみんなで建設的な意見を出し合って正しい解答に近づく行為だと私は思っているのだけど、論争好きな人たちは論争に勝つために相手の意見なんて聞いてないんだよね。あげあしとることしか考えてない。



前者は「読み手」の知性を信頼しており、十分な論拠を示し、適切な推論をすれば「たいていの人は私と同じ結論に到る」と思っている。
後者は「読み手」の知性を信頼しておらず、放っておくとたいていの人は「自分の意見とは違う、誤った結論」に到ると思っている。
だから大声で、金切り声をあげて、他の人が話している声が聞こえないように、言論の場を占拠しようとする。

内田先生は後者をスターリン金正日のような言論の自由を許さない独裁者のようだとおっしゃっていますが、おそらく考え方や意見がまるで違う人達が議論しようとするとこうなってしまうのではないでしょうか。自民党共産党。右翼と左翼。宗教家と科学者。テレビの討論番組なんかでハブとマングースで議論させるみたいな場面を多く見かけますがあーいうのは見世物としてはアリかもしれないですがけして建設的な議論には発展しないですよね。



たとえば大勢でAとBどちらが正しいか?みたいな論争をするのってとても不毛だと思うし、答えがでない時がほとんどです。Aが正しいと思う集団とBが正しいと思う集団がそれぞれ別れて議論を深めたほうがより建設的なのでは?どうしてもA・Bどちらが正しいか対決がしたいなら論争ではなく多数決で決めればいい。