村上春樹「1Q84」が描く気持ち悪いものの正体

話題作「1Q84」のBook1、Book2を読みました。
図書館で予約していたことををすっかり忘れてましたが
今頃になって電話が来たので遅ればせながら読んでみたしだいです。
おおまかな雑感としては気持ち悪いけどおもしろい(笑)
複数の気持ち悪いものの点を線でつなぎその正体を暴き出す。
感動とまではいかないけど村上春樹の鋭い洞察力にはいつも感心させられます。
以下、間違ってるかも知れないけど私なりの解釈。


作中では「連合赤軍」「ヤマギシ会」「エホバの証人」「オウム真理教
世間的に気持ち悪いと思われている組織がゾロゾロでてきます。 
これらの気持ち悪い人達がなぜ気持ち悪いのかと言うと人間性を否定し
教条的なイデオロギー(観念)を盲目的に信仰しているからです。
それに対して主人公達は「愛」や「美」や「道徳」などの
普遍的な価値を大切にしています。ただし我々一般人が思い浮かべるような
漠然とした美徳ではでなくもう少し純度の高いモノ。
無駄を排除して本質を極めたものが好きなようです。例えば
嘘偽りのない美(真善美)だったり、法律以上の正義だったり
無駄のない完璧なボディだったり、本当の(プラトニックな)愛だったり。
つまり哲学者プラトンの言うイデア(理念)を大切にしています。
イデオロギーイデアは文字だけ見ても似ている。
どちらも目に見えない形而上学的な概念であり、その類似性もあってか
愛とか正義とかを信仰する主人公側もやや気持ち悪く描かれています。
数学や文学に見られる芸術性を愛する天吾は「美少女に欲望するマザコン
強く正しく美しく生きようとする青豆は「自分の考えが全て正しいと
思い込んでいるフェミナチ」この作品に出てくる登場人物は多かれ少なかれ
意図的に気持ち悪く描かれています。しかし違和感や嫌悪感を感じつつも、
主人公達に感情移入することでオウム真理教的なものを自分には理解できない
頭のおかしなやつらとしてではなく、私達の延長線上にあるものとして
把握できる構造になっています。図にするとこんなカンジ。


 一般人         夢・想像    (気持ち良い・キレイ)
              ↓    
 主人公達       イデア(理念)   (やや気持ち悪い)
              ↓ 
宗教・政治団体    イデオロギー(観念) (かなり気持ち悪い)
              ↓
あけぼの・さきがけ    実体化      (超キモイ!醜い!)
 

1Q84に出てくる気持ちの悪いモノの正体はイデア(理念・理想)です。
リトルピープルとは日々、夢や理想を作りだす人間の脳の機能の暗喩でしょう。
複数系になっているので一人の夢ではなく、複数の人間が夢や理想を語りあった
り手を加えたりすることでできる集合美意識の共同制作過程そのものかと。
リトルピープル達が作る空気さなぎとは人間の夢や理想から無駄なものを
排除し、本質だけを純粋培養したまじりっけなしの完璧な「イデア」です。
普通の人間はイデアを感じたり想像することはできるけど、
実際に目で見ることはできません。自然界では一見無駄と思われるものも
それが存在するために必要な要素だったりするので、いっさいの無駄を排除した
完全であるイデアは精神世界でしか存在できないからです。
花道やフラワーアレンジメントで美しくないからといって根を切ったり、葉を
切ったりして作った活け花は通常より短い時間で腐って枯れてしまうでしょ?
なので無垢な少女や芸術家や宗教家がインスピレーションとしてイデア
受け取ることはあるようですが、それを現実に求め、とどめておくことは
不可能なんです。それでも現実の世界でイデアを無理やり実体化し、
物質と同化させ、存続させようとすると、それを維持するために必要な
要素が新たに加わってしまい、もとのものとは似ても似つかない、
この世のものとも思えない恐ろしいものを見ることになります。
夢のような共産社会を作ろうとしたら悪夢のような世界になった
ジョージ・オーウェルの「1984」みたいに。
そして理想の人間が住む理想の王国を作ろうとした結果
悪魔のような手法で大量殺戮を引き起こした「地下鉄サリン事件」みたいに。
「夢」の別名は「呪い」です。(byライムスター)


宗教とか思想とか関係ねぇ!これからは個人主義の時代だとか言って
80年代に生まれた「拝金主義のブランドブーム」や「アイドル文化」
その後90年代に流行った「本当の自分探し」「デートカルチャー」
00年代の「純愛ブーム」「ダイエットブーム」「アキバ系美少女萌え」
などなどこれら一連の夢や理想を語る文化はすべて宗教の亜種かもしれない。
そんなようなことを1Q84ではわかりにくく暗示しています(笑)。
マザは「雛形である不完全な人間」でありドウタは「理想の人間」
人間は誰しも理想の人間像を思い描いてしまうものです。
子供のときに親や先生にああしなさいこうしなさいと言われ
作られた純粋で完璧な自分のイメージ。あるいはテレビで語られる
より理想的で美しい人間のイメージ。ある意味人間の宿業みたいな
ものですが、そんな非現実的な理想を他人に求められたり、
自分が理想の人形(ドール)を演じなければならないかと思うと
そこはかとない恐怖を感じます。いったいオウム真理教の信者に
育てられた子供達はどんなドウタを抱えているのか。
誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてるよ(by宇多田ヒカル


パシヴァはリトルピープルから電波みたいに送られてきた理想を
中継する人(受信機)。レシヴァは理想を受け取る人(受像機)。
リトルピープルが無責任に理想を作り垂れ流すテレビ局だったら、
ふかえりがアンテナで教祖様はテレビ、信者は視聴者の関係かな。
対する天吾は小説(カウンターカルチャー)で相殺する。
このへんのくだりは文明の利器であるメディアと
ギリシャ神話に出てくる不気味な魔女メディアを相対化させているのかも。
どちらが良いとか悪いとかではなく、どっちも同じモノとして扱ってます。
高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない。(by新世紀エヴァンゲリオン)
2ちゃんねるで電波を受け取るなんて言ったら完全にメンヘルな人ですが
実際に私達はテレビやラジオで理想の映像や音楽を受け取っています。科学も
宗教も共産主義も資本主義もごちゃまぜになって、しっかり洗脳されてます。
それをわかりやすく説明的に描くのではなく、
わかりにくくメルヘンチックに描くのが村上流(そこがまた気持ち悪いw)
まぁ村上春樹の考えたアイデアイデアの一種ですから
リトルピープルのせいにしとけばいいんです(笑)


1Q84の幻想的な描写に賛否はあるものの人間は良くも悪くも
理想を求めずにはいられないことに間違いありません。
そこにつけこむのがカルト宗教であり、政治思想であり
その他モロモロのコンテンツ産業なのであります。
誰かが作った、あるいは自分の描いた理想の自分になりたい。
そして理想の人を見つけてひとつになりたいと思う。
同じ理想を持った人たちが集えばもっと素敵。
理想の集団が理想の家族になり理想の国家を作る。まさに楽園。
そういう思想のもと北朝鮮は地上の楽園と言われるようになりました。
ああ。気持ち悪い(by 劇場版エヴァンゲリオン)


現実をかえりみず夢や理想しか見ようとしない人達はリトルピープル
に操られているのかもしれない。リトルピープルはまるで
メン・イン・ブラックにでてきた人間そっくりのロボットを
頭の中から操縦しているちっさいエイリアンみたいですね(笑)


理想の脳内彼女(彼氏)を追い求める主人公達と
理想の王国を夢見る理想主義者達は
たぶん似たもの同士の相似形でしょう。
ホント気持ち悪いけどおもしろい。

BSマンガ夜話『ケロロ軍曹』雑感

扱ってるのがギャグマンガのせいなのか番組は常に楽しい雰囲気。ゲストの矢口真里が「マンガが大好きで家に800冊くらいある」と自身のオタクぶりをアピールしていたがケロロにでてくるパロディの元ネタを(一番わかりやすいエヴァネタすら)わからずに読んでいたのにはビックリ。パロディがおもしろいマンガなのにそんな読みが可能なのか。でも夏目さんいわくパロディは元ネタがわからなくてもそれが何かのパロディとわかるだけでもおもしろさが伝わるらしい。よく考えてみればケロロの主な読者は子供達。エヴァガンダムを知らない世代が一番おもしろいと感じてるんだよなぁ。確かに私も海外ドラマの「24」は見たことないけどジャックバウワーのものまねをする人はおもしろいと思うし、子供のころ西部警察見たことないのにジーパン刑事のものまね「なんじゃこりゃ〜」で笑っていたっけ。

BSマンガ夜話『リストランテ・パラディーゾ』雑感

いつもよりテンポの悪さが気になったが、このマンガから得られる不思議な心地良さを言葉で説明するのはやっかいなようで。ふだんより説明に時間がかかっている感じがした。夏目の目で「見る側の目は黒く、見られる側の目は白く描いている。」「キャラクターの視線がそのまま読者の視線を誘導するようになっていて、要所要所で間(滞遊)を作ることで快感を生んでいる。」との説明に目から鱗。目線で読者の時間をコントロールしていたのか。さすがプロの目はすごい。


映画ライターの皆川ちかが、リス・パラのラストシーンが俯瞰の絵で終わってるから映画的と言っていたが、それに対して、いしかわじゅんが「そんなもん映画的でもなんでもない。マンガでは昔からよくある手法だよ」とあきらかに不機嫌になっていた。確かにリストランテ・パラディーゾにはフランス映画を見た後のような後読感があるけど、構図や演出の類似性から映画的というのはいささか乱暴な気がする。それを言い出したら手塚治虫もさいとうたかお白土三平もみんな「映画的」の一言で片付けられてしまう。全てのマンガは映画のパクリみたいな話になるのでいしかわじゅんは怒ったのではないだろうか。ここではリス・パラの「ゆったりとした時間の使い方・ここち良い余韻・人生の味わい深さ」がフランス映画が大事にしている美意識と似ているね。って話にすれば良かったんじゃないかな。


皆川さんがしゅんとなってしまったのはかわいそうだったけど、いしかわさんにガツンと言われたことはプロの物書きとして、とてもいい勉強になったのではないだろうか。若いうちにあんな大御所と仕事ができたなんて正直うらやましいよ。

戯れにグルメマンガを比較してみた

■「神の雫」は一元論(ユダヤキリスト教的)

この世界の神である神崎豊多香が選んだワインのみが正解。(どんなにうまいワインだろうと豊多香と違うワインを選ぶと神の後継者になれない。)現実のワインの世界において絶対的な真理や答えなどないのだが、この作品の中では常に正しい答えがひとつだけ用意されている。ぶっちゃけ作者の好きなワインにたどり着いたやつが正しいという独善的な価値感のもと世界が構成されている。主要な登場人物は年齢や経験に関係なく全て作者と同じ価値感を有するので、作者の好きなワインを飲むと全員が絶賛する。しかも全員、判で押したように快楽的な絶頂を迎えたようなイキ顔をする。作者の価値感に共感できれば良いが、できない場合はオウム真理教の布教用ビデオを見てるような不快な気分になる。


   ◇作者の根底にある哲学
   作者を信じるものは救われる。
   権威主義・ブランド志向・スノビズム


■「美味しんぼ」は二元論(ゾロアスター教的)

2つのうちどっちが優れているか民主主義(多数決)で対決する。最終的にうんちくが優れている方が勝つ。天然食品などの自然なもの、大地の恵みを感じるものが賞賛される。かと思えば伝統や文化などが勝利の決め手になるような特殊ルールが発動する場合もあるので油断は禁物である。


   ◇作者の根底にある哲学
   農薬ダメ絶対。自然を大切にしよう。
   反権威主義戦後民主主義反戦平和・男女平等・エコロジー


■「もやしもん」は多元論(ヒンズー・仏教的)

酒に味の違いの差はあれどそこに勝ち負けはない。高い酒にも安い酒にもそれぞれの良さがある。自分の好みや経済力、そのときの気分、気候、場所にあったものを飲めば良い。豊かさとは選択の幅である。違いを楽しもう。


  ◇作者の根底にある哲学
   豊かな食文化に感謝。自分と違う考えも認めよう。
   多文化共生・フェティシズムアニミズム

スタートレックと水戸黄門

最近ネットの動画サイトでスタートレックばかり見ている。過去のシリーズは全部見た。今見てるのはわりと最近の「エンタープライズ」という作品だ。SFと言えばカッコイイ宇宙船や派手な爆発シーンなどビジュアルのほうに目を奪われがちだが、スタートレックはどちらかという劇中の人間ドラマがおもしろい。そこにはアメリカ人が欲望する理想の人間関係があるからだ。歴代のスタートレックの艦長にはアメリカ人にとって理想のリーダー像が反映されている。エンタープライズ(NX−01)の艦長ジョナサン・アーチャーも例外ではなく彼は艦長でありながらみずから率先して危険な任務につく。宇宙船の艦長なんだからエンタープライズの司令室にいりゃあいいのに何故か末端の兵士ばりに市街地で銃撃戦をしたり、ジャングルを探検したりする。冷静に考えると、守るべき王将が戦地で毎回死にそうになるような作戦は戦術的におかしいのだがそこはテレビドラマ。艦長は若者といっしょに現場で戦う。部下を励まし、勇気づけ、時には自分の命を投げ出しても部下の命を守ろうとする。若者にとって頼りがいのある理想の上司を描いているのだ。



一方、今年63歳になる親父はリビングで再放送の水戸黄門ばかり見ている。水戸黄門は確かにおもしろいけど毎回同じパターンであきないのか?というのが私の素朴な疑問だ。だいたい黄門様は水戸家の血筋ってだけで何も特別なことをしていない。危険な任務は全部部下まかせ。部下を信頼しているのはわかるけど、正直部下の能力に依存しすぎのような・・・・。上司としてはあまり理想的ではない気がするが老人達からは今も絶大な人気を得ている。なぜだろうと考えたが最近答えがわかった。水戸黄門は主人公の光圀が活躍するドラマなのではない。水戸黄門というのは老人が欲望する理想の部下達(若者像)を描いているドラマだからだ。たぶん優秀な若者が老人(自分)を守り、無条件で慕ってくれる。そんな人間関係が気持ちいいんだろうな。きっと。


両者を見比べてみると、ドラマというものの本質は視聴者が現実世界で欲しているもの、満たされない心を埋めるための娯楽なんだなーということに気付く。そう考えるとスタートレック水戸黄門に優劣の差はないのかもしれない。

議論についての議論。 〜論争なんてくだらない〜

論争嫌い(内田樹の研究室)

「論争嫌い」って視点が新しい。どうもこの世の中には論争好きと論争嫌いがいるみたいです。私も自分の意見を持ってないわけじゃないけどその正しさを証明するためにわざわざ論争するのって嫌いです。バカバカしいと思うので議論の席を立ちます。論争好きは「逃げた」「間違いを認めた」とか言いそうですが
わかる人だけわかればいいと思いますし、それで十分なんじゃないでしょうか。「このバカどもにわからせてやろう」なんて思うのは驕りも甚だしいし、なんか違うスポーツに発展しそうです。

「論争」というものが生産的になることはない、というのが「文科系」の学問の宿命だからであるからである。どこまでもやってゆくと、最終的に論争は「どちらが頭がいいか」というまことににべもないハードウェアのスペック比較になる。どのような高尚なテーマで始まった論争も、かならず最後は生得的な資質の差を比べるところまで品下る。

まったく同感です。理数系のようになにかしら答えがあるような世界での論争というのは正しい答えに少しでも近づくためのツールとして有効かもしれませんが、けして正しい答えがあるわけではない文系の世界において論争が生産的になったためしがない。結果的に好みの違い・考え方の違いが明確になるだけ。最終的にどちらの頭が良いかの勝負になってしまいがちです。結局、主題がそっちのけになって議論にすらならないような気がします。


言論の自由」というのは論争をしないで済ませるための工夫であると私は思っている。
(中略)
論争というのは、どこかで相手に向かって「黙れ」という言葉を口にすることになる。
それは民主主義社会においては禁句だろうと私は思う。
私たちは誰もが「言いたいこと」を公開の場で示し、自分の意見に同意してくれる人の数を増やす権利がある。
だが、他人が私見を発表することを禁じる権利はない。

議論ってみんなで建設的な意見を出し合って正しい解答に近づく行為だと私は思っているのだけど、論争好きな人たちは論争に勝つために相手の意見なんて聞いてないんだよね。あげあしとることしか考えてない。



前者は「読み手」の知性を信頼しており、十分な論拠を示し、適切な推論をすれば「たいていの人は私と同じ結論に到る」と思っている。
後者は「読み手」の知性を信頼しておらず、放っておくとたいていの人は「自分の意見とは違う、誤った結論」に到ると思っている。
だから大声で、金切り声をあげて、他の人が話している声が聞こえないように、言論の場を占拠しようとする。

内田先生は後者をスターリン金正日のような言論の自由を許さない独裁者のようだとおっしゃっていますが、おそらく考え方や意見がまるで違う人達が議論しようとするとこうなってしまうのではないでしょうか。自民党共産党。右翼と左翼。宗教家と科学者。テレビの討論番組なんかでハブとマングースで議論させるみたいな場面を多く見かけますがあーいうのは見世物としてはアリかもしれないですがけして建設的な議論には発展しないですよね。



たとえば大勢でAとBどちらが正しいか?みたいな論争をするのってとても不毛だと思うし、答えがでない時がほとんどです。Aが正しいと思う集団とBが正しいと思う集団がそれぞれ別れて議論を深めたほうがより建設的なのでは?どうしてもA・Bどちらが正しいか対決がしたいなら論争ではなく多数決で決めればいい。

ミクがミクであるために -ボーカロイド三原則-

初音ミクの販売元クリプトンが酒井法子「碧いうさぎ」の替え歌「白いクスリ」ニコニコ動画削除騒動についてブログで再説明、知的財産権を侵害すると主張


事件の詳細はGigazinさんの記事で見ていただくとして、かなり強引に要約すると開発元のクリプトンは「個人を中傷する歌は初音ミクのイメージが損なわれるから禁止!」ってことらしい。これについては「表現の自由の侵害だ!」という反論があるのだけど、そういった法律関係の議論は他の人に任せるとしてこの事件は初音ミクというキャラクターを考える上でとてもおもしろい思った。SFヲタの私としては初音ミクにはアイザック・アシモフロボット三原則がプログラムされているのではないかと勝手に妄想してみたわけだ。(初音ミクの権利問題の話じゃなくてサーセンw)ロボット三原則とは「ロボットは人間に危害を加えてはならない」っていうSFではお馴染みのやつなんだけど 当然初音ミクはパソコンの中にいるわけだからターミネーターのように人間に暴力を振るえるわけではない。しかし言葉の暴力を振るい人の心を傷つけることはできるわけだ。そこで初音ミクを作った科学者「クリプトン博士」はミクにボーカロイド三原則をプログラムした。


  • 第二条
  • ボーカロイドは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が第一条に反する場合はこの限りでない。
  • 第三条
  • ボーカロイドは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり自己をまもらなければならない。


なんというSF萌え!私はボーカロイドが人々に愛されるためには最低でもこの三原則は必須だと考える。


初音ミクにはまるで人格があるように見える。もちろんそれはミクの楽曲の製作者がそういうふうに見えるように歌わせているだけにすぎないのだけど私達が好きな「初音ミク」とは道具としてではなく、楽曲に垣間見れる初音ミクの人格、もっと言えば初音ミク人間性なのだと思う。(ボーカロイドなのに人間性っておかしくない?と思われるかもしれないが、SFでは人間も分子で組み立てられた機械にすぎないのである)もし初音ミク酒井法子を中傷することができるのであれば、学校のクラスのムカツクやつを貶める歌も作れるわけだ。それは巡り巡ってあなたを中傷する歌を歌うことになるのかもしれない。しかし、それはあなたの知ってる初音ミクなのか?否、ただの道具である。あるいはミクではない別のキャラクターである。「我思う、ゆえに我あり」ミクがこう思うからミクという人格が存在するのだ。第三者である個人の人格を守ることがミクの人格を守ることになる。という意味においてはミクの生みの親であるクリプトン博士の言ってることはまったく正しい。