民衆などというものは、いつでも支配者の思い通りになる

人々を政治指導者の望むようにするのは簡単です。
国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、
平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。
そして国を更なる危険に曝す。このやり方はどんな国でも有効ですよ。


ナチスドイツ国家元帥ヘルマン・ゲーリング

第二次世界大戦後のニュンベルク裁判で証言したナチス高官の一説。これは60数年たった今なお有効である。ブッシュ政権下のアメリカでイラク戦争に突入する際に使った手法がそのまんまであることには苦笑する。中国共産党が日本を悪者にして人民を掌握しているのもこれに類する。また近年日本でも北朝鮮を敵視することで政権運営がやりやすくなっている感も否めない。また市民レベルでもサヨはファシズムの脅威を煽り、ウヨは革命主義者の脅威を煽ることで運動の源泉としている。民衆が賢くなることはありえないのだろうか。ネットによる情報革命が良い方向に動くことを期待したい。

左翼教師の君が代・日の丸不起立問題について思うこと

私個人はそれほど熱心な愛国者ではないがサッカー、ワールドカップのテレビ中継で君が代が流れたらなんとなく口ずさんでみたくなったり、WBCで優勝した際に見た日の丸に目頭を熱くする。その程度には国歌や国旗というものに親しみを感じている。時代は変わったなぁ。


いつごろかはわからないけど(おそらく1995年頃を境に)この国の空気が変わった。社会党が消滅したせいかもしれないし、北朝鮮がミサイルを打ったせいかもしれない。ぶっちゃけると今の左翼教師には平和主義者のイメージがない。せいぜい全体主義者を批判する個人主義者というか、「自分の気持ちを表現している人」にすぎない。式典で不起立を貫く行為に、少なくとも昔の左翼教師は戦争を遠ざける意味があるのだと信じてやっていたわけだけど、おそらく今の左翼教師たちは不起立が戦争を遠ざけるなんて誰も信じていない。信じていないのにもかかわらずやめられない。今の彼らを支配しているのは平和主義ではなくシニシズムだ。

恋が女をダメにする。を読んで怒ってる人が理解できない。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20090701/p1


最近は恋愛至上主義にあふれてて最も魅力的な男性人物に伍して対等に渡りあえるだけの魅力と、存在感と、「格」を備えた魅力的な女性キャラがいないよねって話で、あ〜確かに最近そういう女性キャラ見ないなぁと思っていたらブコメで「女性は恋したらダメになるのか」「恋をして成長することもある」「それは単におまえの趣味だろ」「名誉男性」とか、いわゆる女性蔑視発言みたいになってしまっていてびっくりしました。なんで微力ながらフォローしたいと思います。


物語の都合上、恋愛をしないことで魅力が引き出せる女性キャラ。
恋愛しちゃうと弱くなる女性キャラ。というのは確かにいます。
それはおそらくこのようなキャラのことではないでしょうか。


銀河鉄道999メーテル
・機動戦士Zガンダムハマーン・カーン
風の谷のナウシカクシャナ殿下
もののけ姫のタタラ場の長、エボシ様


これらのキャラが共通していることは 恋愛などという個人的な感情よりも、理念や使命や共同体に価値をおいていることです。確かにこういう女性はカッコイイと思います!でも、これは男性至上主義ではありません。マザーコンプレックスです。母子家庭で育った男の子が 女手一つで自分を育ててくれる母の姿を見て、うちのかあちゃんは強い!うちのかあちゃんはカッコイイ!うちのかあちゃんはやさしい!かあちゃん大好き!と思う原理ににています。そんなかあちゃんが恋愛をしたらどうなるでしょうか?子供達だけを見てくれた大好きな母ちゃんが他の男性と? 自分の中の強くてカッコイイ女性である母ちゃんのイメージがガラガラと崩れてしまいます。まぁ、そんなようなイメージを付与された美人で強い女性キャラ、私心ではなく共同体のために動く女性キャラ、男なんてハナッから頼りにしていない女性キャラは魅力的だなぁと感じる気持ちが私にもあります。もちろん虚構の中のキャラの話です。これは別に特別なことではなく日本には古来からアマテラスという女神が一番偉いという神話があったり、卑弥呼という女王が占いで国を治める話があったりと、日本人男性は何かと女性信仰の話が好きだったりします。それなのにブクマでは女性蔑視というコメントが多く見られるのがどうにも理解できませんでした。id:kaienさんが言いたかったことは最近、恋愛なんて眼中にない強い女性キャラがでてこないのでひさびさに見たいよね。人類のために巨神兵で蟲どもを薙ぎ払う強い美人キャラが見たいよね。という話だと思いました。100年に一度の不況で男が少し弱ってる証拠なのかもしれません。

バカウヨ・バカサヨの増加によりデモが逆効果になってる件

不法滞在の外国人が増えてることに対して、事情はどうあれビザが切れてるんだったらしかたないよね。どうぞお帰りください。といったスタンスだった私だが、在特会が「不法外国人はでてけー」と14歳の少女に対して個人攻撃をするデモを見て「おいおい、そりゃやりすぎだろう」と「それはおまえらの仕事じゃねぇだろ」と思った私は心情的にカルデロン一家擁護派になってしまった。ウヨ業界の人から法律について何か言われそうだが、一般人からすると「かわいそう」なのである。ヤクザまがいのおっさんに家を囲まれたら、いい年こいた自分でもストレスでどうかなってしまう。かわいそうだから保護したくなるのである。ところが今度は在特会が嫌いな集団が「外国人排斥を許さない6・13緊急行動」というデモで「外国人差別反対!反日上等!日の丸うんこー!」とやりだした。頭の悪さ全開である。特に日の丸に愛着を持ってるわけではない私もかなりの不快感を覚えた。「日本人はうんこだー!うんこ!うんこ!うんこー!!」サヨ業界の人は日の丸が外国人を差別してるのだとか何とか言いたいのかもしれんが、一般人はそんなことよりも反日団体のマナーの悪さのほうが気になるのである。マナーすら守れない外国人はとっとと国に帰れ。


この2つの市民団体は社会への問題を提議するためにデモを行っているはずが、まったく逆の効果を生み出しているという点で共通してる。在特会差別利権を訴えるはずが、ただの弱いものいじめにしか見えず、外国人差別をゆるさないほうの団体は外国人への偏見をますます増やしてしまっている。おまえらいっそのこと名前を入れ替えたらどうだw


デモデモしてるやつらは、自分達が気持ちよく運動できればそれでいいと考えてるみたいだが、公道でオナニーを見せ付けられるほうの身になって考えたことはないのでしょうか?マーケティング理論でも演劇論でもマンガ家入門でもいいから読みなさい。そもそも大衆に自分達の意見をアピールしたいなら、まず大衆について考えるべきなのである。商品を売るためにはまず消費者のことを考える。作品で自分の意見を書きたいなら、まず読者について考える。これは基本中の基本だ。国家について語りたいなら国民のことを考えるのは常識だろう。国民感情を逆撫でしてどうする。エコロジーを訴えたいなら「自動車に乗ってるやつらは環境破壊者だ!うんこだー!」と糾弾するのではなく「できるだけ電車やバスに乗ろう!」と呼びかけるべきなのである。コミュニケーションを成立させるためには相手のことを考えなきゃいかんのだ。それがわからないやつをバカと呼ぶ。バカがデモで主張することはまったくもって逆効果だ。

「東のエデン」最終回雑感

東のエデンを見終わった。第1話を見て「これは期待できる!」と思ったのだけど数を重ねるごとにヒートダウン。謎が解けていくほど加速度的に興味が失せるアニメってのも珍しい。個人的には、1話や2話を見て2ちゃんねる掲示板で謎について語ったり、今後の展開を妄想してるあたりが一番おもしろかったなー。理想を言えばひとつの謎が解けるとまた新たな謎が浮かんで、最後まで思考にふけっていられる状態だったら最高だったのだけど、実際はひとつの謎が解けるとその答えがあまりにも凡庸で、物語が進むにつれてきっと他の謎もありきたりな答えなんだろうなぁと思うと期待が徐々に薄れてゆくガッカリ進行だったのが頂けなかった。情報は多いけど中身が薄いアニメってのが正直な感想。にもかかわらず、最後まで見れたのは「日本を変える」という古いようで新しいテーマに魅せられたという点が大きい。主人公は日本をどうやって変えるのか?日本に必要なものは何なのか?という答えを見たくて最後まで付き合ってみたのだけど・・・・どうやら答えは映画館に行かないと教えてくれないようで、アニメ版を見ただけでは物語は完結しないようです。



関連:『東のエデン』最終回が予想通り投げっぱなしで終わった件

オタクという言葉の消失

オタクが語るオタク論ではなく、世間一般のオタクのイメージの話です。


今から17年も前の話です。中学生のころ、パソコンにすごく興味があってその手の雑誌を友達と見ながら「やっぱりIBMがいい」だの「マッキントッシュ最強」だの「富士通のタワー式も捨てがたい」だのと熱く語っておりました。(一般的なPC98はスルーするのがカッコいいというわけのわからない美意識があった)今ほどパソコンは普及しておらず、パソコン一台が30万円以上したときの話です。別の仲良しグループから「おまえらオタクなの?w」とバカにされた苦い思い出があります。当時コンピューターなどというあまり一般的ではない機器を愛好する人達を異端者扱いする傾向がありました。普通の人とそうでない人を差別化するための言葉がいわゆる「オタク」という言葉でした。今はどうかと言うとそんなことはないですよね。パソコンが欲しいと思うことはわりと普通で、むしろ仕事でパソコンが使えない奴は無能だと思われます。巷では「インターネット」や「ウィンドウズ」などの専門用語が日常的に飛び交い、パソコンのカタログを見てどれがいいかなぁとワクテカしながら選ぶだけではオタクと言われなくなりました。不思議なものです。もしかしたら「オタク」という言葉はその趣味が差別されなくなった瞬間に無くなる言葉なのではないのか?と私は思うのです。現代においてパソコンオタクと呼ばれるためには相当な知識と変態的な情熱が必要です。相当な知識だけではダメです。「専門的な知識が豊富ですね」とか言われて尊敬されてしまいます。パソコンが好きな人にも「悪いけど、そこまで好きなのは理解できないわ」と思わせるような変態的な情熱が必要なのです。逆に言えば自ら進んでオタクになりたくてもハードルが高くなりすぎてなかなかオタクになれない。そんな奇妙な現象がおこっています。一般人とオタクをわける垣根がかなりの勢いで変遷しつつあるように思えます。


近年ゲームオタクって言葉も聞かなくなりました。もう、大人だからと言ってゲームをするだけではオタク呼ばわりされることはありません。同じようにマンガを読むだけではオタクと呼ばれることもなくなりそうです。その趣味が理解され、広く普及されてしまうと第三者からオタクとは言われにくくなります。簡単に言えば「変な趣味ではない」と多くの人に思われたらそれはオタク趣味ではないと言えると思います。もしかするとアニメオタクという言葉も聞かなくなる日がくるのかもしれません。ジブリアニメやディズニーアニメが好きだからと言ってそれはなんら変ではないからです。「幼女の裸が出てくるアニメが好き」とか「イケメンのホモ同士が抱き合うアニメが好き」とか、現代人から見てちょっと変だと思われる趣味・人には言えないちょっと恥ずかしい趣味じゃないとオタクとは言われない。そう考えると「二次元美少女」「萌え」「エロゲー」「やおい」などいわゆる性的なものを扱ったジャンルは、まだまだ一般的ではない・理解されにくいという意味で、オタク最後の砦なのかもしれません。


関連:鈴木史朗が良いこと言った「ゲームファンの99.99%は、普通に生活している」

夢見る才能

将来の夢じゃなくて夜寝てるときに見る夢のことね。


他人の夢の話ほどくだらねぇものはねぇと重々自覚した上で書くんだけど
私は夜、夢を見ることの天才なんじゃないかと思う。


今日も高校生のとき、つきあっていた彼女の家に行く夢を見たんだけどお話としてすげードラマチックなんだ。今まで読んだどんな小説にも負けないぐらい官能的。夢って支離滅裂なものが多いって聞くけど自分が見る夢は全部スジが通ってることが多いんだよね。頭の中にシナリオライターがいるんじゃないかってぐらい物語的によくまとまってる。そんで夢にでてくる家の構造とかインテリアとかもすごくおしゃれなんだ。当然その手の雑誌もまったく見ないのになぜこんなに美しい舞台美術を創作できるのかも謎。実際の私は自分の部屋のかたずけさえ満足にできないダメ男。芸術の才能なんてからきし無いのに。誰がこの総合芸術を作り上げているんだ?と起きた後に考えるんだけど、やっぱりそれは俺の脳なんだよね。厳密に言うと半覚醒状態の俺の脳。映像表現なんて創作したことなど皆無なのに、なぜこんなステキな映画を自動生成できるのかすごい不思議。


すごい才能だな俺の脳!と思うんだけど起きてるときにその才能はまったくいかされない。夢を構成しているドラマを作る能力とか映像を作るデザイナーの能力は起きてしまうと消えてしまう。ふだんの私はそこらへんの女子中学生よりも芸術的な想像力が貧困なのに夢見る私は日本の映画監督なんて目じゃないぜってぐらい凝った演出ができる。これって科学的にどう解釈されるんだろう。


と、ここまで書いて恥ずかしくなってきた。
やっぱり夢の話なんて書くもんじゃない。